author: 有栖川真理
かつて、《歩み》が大地を踏みしめたことは無かった。それは常に超えゆく歩みであった。
道とは超過してゆく空間である。それは通じているのではなく、越えられてゆく。道は、地図ではなく、ましてや、大地ではない。道が開示するのは彼方である。
道の上をひとは歩むのか? 道のなかを? それとも、道に沿って?
這い水でさえ、その腹を擦りつけはするが、それは擦〔こす〕り、そして立ち止まるためなのではない。這うことによって、そこに間隙が、超薄的間隙が生ずる。表面に貼り着くのは、剥がれるためである。それは滑る、ずれる。そして道から溢れ出る。
道にとって余りにも過剰な歩み。
大地にとって余りにも過剰な道。
歩みは飛ぶ。這うこともまた飛行である。飛行は滑り、空間をつるつると滑ってゆく。
道は歩みとなるとき、存在が生成変化となるdisposition(その海の原理)なのだ。物理的道程を離れ、ホライゾンを超えて、道は道から離陸する。そして飛行し、帰路を急ぐのだ。
やがて道は軌跡となり、航跡となり、煙のように消えてゆく。それはtraceableなものではない。道路には道は残っていない。道は「道路」から溢れ出る。それは水であり、川である。
道は、必ず零れるのだ、別の道に向かって。
一本の道は無い。しかしまた、道は一本しか無い。つまり、一直線の道は無く、多種多様なものを縫ってゆく糸があるだけだ。
かくして道はもはや風となり、天をゆく。地を這いながら。それはなぞりはしない。
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コメント
akio
2008/11/11 URL 編集